地震の石碑 No24
南足柄市内の地震の石碑(その2)
所在地 | 南足柄市内 |
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交通 | 大雄山線の和田河原から大雄山駅を利用。 |
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元記事 | 温泉地学研究所 観測便り第43巻 1993(平成5)年発行 |

大雄山駅から箱根登山バスに乗り、狩野駐在所前で下車すると、すぐ目の前の坂の上に弘西寺堰碑がある。この石碑は大正関東地震の被害についての石碑であるが、安政年間の地震についても記述がある。この時期に、南足柄周辺で大きな地震は知られていないが、上流の川入堰の碑にも安政6年に被害を被ったとの記述がある。そのため平野さんは、知られてはいないものの、実際に地震があった可能性が否定できないと述べている。
弘西寺堰碑から大雄山駅方面にもどり、南足柄市役所の入口交差点で左折(市役所とは逆方向)してしばらく行くと、信号「切通し」の三叉路に出る。 ここを左(旧道)へ曲がり、「秋羅の画廊と喫茶」の看板と製材所を過ぎた所、道路の左側に震災復舊記念碑がある。
震災復舊記念碑のある場所から、さらに旧道を更に北(山北方面)へ700m程進むと、「慶伝寺」の看板がある。 そこを左へ入って5分ほどで慶伝寺に着く。山門(仁王門)の脇(向かって左手、道路沿い)に市川実太郎顕彰碑が建っている。市川実太郎氏は、怒田耕地整理組合長として、大正関東地震の際の被害復旧に尽力した人である。
慶伝寺から元の旧道に戻り、少し北へ行った所に珠明寺がある。 「地震の石碑24」によると、"この墓地に「大正十二癸亥九月一日 大地震之節箱根底倉活埋設至今遺形不顕矣」と刻まれた墓石がある" とのこと。 少しだけ探してみたが、墓地が広くて無理。 石碑ならともかく、他人のお墓を探し回るのも気が咎めるので諦めて 帰ろうとすると、背後から声を掛けられた。 お寺の方(女性)のようだったので、このお墓のことを聞いてみたが、判らないとのことであった。
珠明寺から更に山北方面に進むと、信号「運動公園前」で県道74号に合流する。 それを更に北上すると、新大口橋の袂に福沢神社がある。 「地震の石碑24」では簡単にしか触れられていないが、ここには文命用水之碑をはじめいくつかの石碑が建っていた。文命碑は、西堤と東堤があり、ここに書いたのは東堤のものである。西堤については地震の石碑[27]に記載がある。
※地震の石碑No.24では「文明用水」となっているが、「文命用水」が正しい。
大松寺は、大雄山線・大雄山駅または和田河原駅から徒歩約15分。 その門前に三橋源之助頌徳碑が建っている。三橋源之助氏は漢学や英語に通じ、志願して海軍軍人となったのち兵学校への入学を許されるも、大正関東地震による郷土の惨状を目にして海軍をやめ、産業組合を設立するなどして郷土の復興に尽力した人物である。おしくも47歳の若さで病没したと石碑には記されている。大松寺は、三橋氏が若き日に学問にいそしんだ寺である。
大雄山線・塚原駅から南西へ緩やかな坂道を上ると 南足柄市おかもと福祉館 に出る。 そこを右に折れ、少し行くと右手に石碑群がある。 塚原駅から徒歩約10分。 なお、この石碑群の少し手前、進行方向左側に岩原城跡がある。 (小さな道案内標識もあるが見落としそう。)
大雄山線・塚原駅から北西へ徒歩約10分のところにある、天王院山門脇に「檀信戮力碑」という小さな石碑が建っている。 戮力(りくりょく)とは「力をあわせる」という意味で、お寺の檀徒が 大正関東地震で全て潰れてしまった寺院の再建を果たしたことを記念して建てられた。
写真撮影:2012年8月31日
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