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神奈川県温泉地学研究所 >  基礎講座シリーズ  >  地震の石碑 復刻版 (2012)  >  石碑No.23 南足柄市内の地震の石碑(その1)

地震の石碑 No23
南足柄市内の地震の石碑(その1)

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所在地南足柄市内
交通龍福寺:最寄駅は、大雄山線大雄山駅。徒歩で、県道74号を北へ数分。龍福寺交差点を過ぎてすぐ。
弘行寺:大雄山駅から箱根登山バス(矢倉沢・地蔵堂方面行)雨坪下車。
川入堰碑:大雄山駅から箱根登山バス(矢倉沢・地蔵堂方面行)狩野原下車。地蔵堂方向へ徒歩2分。
震災復興碑:大雄山駅から箱根登山バス(矢倉沢経由内山行)川越石橋もしくは摺手入口下車。川越石橋から摺手入口方向へ徒歩10分。
関連する史跡
  1. 下田隼人の碑(龍福寺)
  2. 下田隼人の碑(弘行寺)
  3. 川入堰碑(関場集落の入口)
  4. 震災復興碑(内山)
元記事温泉地学研究所 観測便り第42巻
1992(平成4)年発行

南足柄市には多くの石碑があり、地震の石碑No.23で3つの石碑が紹介されている。このうち、内山の震災復興碑は、地震の石碑No.11に既出のものである。現在の写真はそちらをご覧いただきたい。


大雄山駅から徒歩5分の所に龍福寺がある。 その境内(本堂に向かって右手)に下田隼人の碑が高くそびえている。

下田隼人の直訴と小田原地震との関係について、元記事(地震の石碑[24])では簡単に触れられているだけなので、ここでもう少し 記述しておく。
城下町小田原が整備されたのは、稲葉氏の藩主時代であるといわれる。1632年(寛永9年)に、幕府老中であった稲葉正勝が小田原城主として入府し、二代正則、三代正通によって、領内の統治が確立された。正勝入府の翌年、1633年に寛永小田原地震が発生し、小田原の城下町は壊滅的な被害を受けたといわれる。また、翌年の将軍家光の上洛の際に宿泊が予定されていた小田原城も甚大な被害をこうむり、その修復に莫大な費用を費やした。この地震後の、城下町の復興および城の修築のための出費のほか、正月の年始回りの多さ(1634年に正勝の後を継いだ2代目正則は、春日野局の孫でもあるからだろうか?)、参勤交代する各大名への振る舞いなどによって、藩財政はひっ迫する。これを補うために、小田原藩では寛永17・18年(1640・1641)に検地を行い、さらに、万治元年・同2年にも総検地が行われた(万治の総検地、1658・1659)。この検知をうけて、不作にもかかわらず、年貢米の増徴のほかに麦租の徴収をも命じられた足柄上・下両郡148カ村の農民が一揆を計画した。当時70歳余の下田隼人は名主寄合で一揆を思いとどまらせる一方、農民を代表して藩役所に麦租の撤回を嘆願したが聞き入れられず、藩主への駕籠訴を決行した。結果、麦租は中止されたものの、下田隼人は処刑された。
つまり、下田隼人がこのような行動に出た遠因には、寛永小田原地震があるということから、ここに地震の石碑として紹介されている。なお、この石碑自体は比較的新しく、大正11年に建てられたものである。 (参考:図説 小田原・足柄の歴史 上・下)

龍福寺入口。
龍福寺入口。ここを入って、右手に巨大な石碑がある。
下田隼人の碑。
下田隼人の碑。この石碑は、大正11年に建てられたものである。
下田隼人の碑(裏)
下田隼人の碑(裏)

なお、下田隼人に関するものとしてはこの石碑のほか、弘行寺の供養碑(観理日圓贈位と刻まれている)がある。もとは、この寺の檀家であったため、ここに供養碑が建てられたようだ。弘行寺は、龍福寺から足柄街道を矢倉岳方面へ登っていき、弘行寺入り口の看板を左に入る。地震の石碑[24]の、弘西寺堰碑へ行く中間あたりである。

弘行寺の入り口。
弘行寺の入り口。門をくぐってすぐ左手に供養碑がある。
大きな桜の木の下に、ひっそりと供養碑がある。
大きな桜の木の下に、ひっそりと供養碑がある。奥に二つ並んで見える石碑のうち、左手が下田隼人の供養碑である。
下田隼人の供養碑。
下田隼人の供養碑(左)。観理日圓贈位と刻まれている。
供養碑の碑文。右側には、万治二子年と彫ってあるように見えるが、三年のまちがいか?
供養碑の碑文。右側には、万治二子年と彫ってあるように見えるが、三年のまちがいか?

川入堰碑は、大雄山駅から足柄街道を地蔵堂方面に進み、狩野原バス停を過ぎてすぐ左手にある。この石碑は、大正関東地震による被害復旧を記念したものであるが、それよりまえの安政年間(安政6年)の地震についても記述されている。嘉永から安政年間にかけて、江戸から駿河にかけて大きな被害地震が連続しているが、安政6年のものは知られていないことから、元記事ではこれは嘉永6年小田原地震の間違いではないかと書かれている (ただし、地震の石碑[24]でこの下流の石碑にも安政の地震の記述がみられることから、知られていないだけで地震のあった可能性を否定してはいけないと、反省の弁がある。)

小田原市方面を望む。
小田原市方面を望む。
矢倉岳方面を望む。
矢倉岳方面を望む。
川入堰碑。人の背丈ほどの大きさ。
川入堰碑。人の背丈ほどの大きさ。
川入堰碑。人の背丈ほどの大きさ。
川入堰碑。

写真撮影:2012年11月9日

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